カエルたちの季節

昨夜はカエルたちがずいぶん騒がしいと思っていたら、今朝は庭のあらゆる水甕、水盤に卵が産み落とされていました。これからしばらくカエルとオタマジャクシの季節です。
蔵の壁にかけた巣箱ではシジュウカラの雛がかえったみたいだし、猫のアゲハも子供を産みました。庭の花たちも咲きはじめ、僕たちには草刈りに追われる季節が始まります。
毎年繰り返されるこうした命の営みの中に自分たちの生活があることで感じるものは、これ以上はないと思われるような安心感です。コロナ禍の中でもそれは同じです。

 

これが2011年の原発事故の時は違いました。不安の原因は土と空気の汚染だったからです。
あの年、不安でいっぱいの人たちに僕はなんと言っていいかわからず本当に困りました。大気と大地に疑いを持ちながら方向を指し示すことなどできないし、自分たちが戻れる方向さえも見失なってしまった感じでした。
でも、今回は違います。
欧米で暮らしている人たちから送られてくるメールには、「家族で森に出かけた」とか「ベランダで風に吹かれるのを感じた」といった話が目に付きます。日本がまだ経験していない恐怖や不安の中で、人が何を求めるものなのかがうかがえます。
こうした不安の訴えに対して僕が答えていることはいつも同じで、「自分自身が自然界の一部だということを思い出してください」ということです。
目に見えない生き物たちや自然界を敵と思うか味方と思うかで世の中の見え方は変わってきます。


ずっと以前の話ですが、原因不明の不安を慢性的に訴える女性がいました。
操法を受けると楽にはなるのですがまた繰り返します。その女性がうちの庭で「なんだか落ち着く」と言っていたことが耳に残っていました。
その後、その女性のお宅を訪れる機会がありました。
敷地内に生える草は残らず除草剤で枯らされていました。家の中も除菌剤が撒かれているのか、病院や研究所のような無菌的と感じる空間でした。数分の滞在でしたが僕は気持ち悪くなってしまって帰り際に、「あなたは原因不明だというけれど、ここに住んでておかしくなるのなら正常だと思うよ」と言ってしまいました。

自然界では草が生えてしまい、生き物は無数に生まれています。
その草や木を切り、他の生き物の侵入を防いで人の生きる空間を確保しています。これが人の営みですが、これをやりつくしてしまったところでは人は生きられません。人は自然界の一部です。
人は目に見えないほど小さなものたちに助けられ守られていないと生きていけないのに、そのことを実感することができません。だから、そんなものたちを育むように手入れされた自然を身の回りに保つことを「正しい生活」と呼ぼうと思います。
目に見えないものへの働きかけが正しかったなら、それは目に見える形で姿を現してくれるものです。
カエルの次の僕たちの関心ごとは、「6月になったら庭に蛍は飛ぶだろうか」ということです。

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