いま、中毒のことを話すわけ

ここのところ、コロナウイルス関連の話ばかり続いているのに、なぜ中毒の話が織り交ぜられているのかと思われているかもしれませんが関係は深いのです。

中毒とは、毒素が排泄できなくて体に溜まっている苦しい状態ですが、気の流れが止まってしまっている状態ということもできます。整体には、中毒操法と言って体の排泄の働きを誘導する刺激法があるのですが、これは実によく使います。どんなに気の流れが悪い人でも、体が毒素を排泄する働きに乗っけて気の流れが整ってしまうからです。気というものは実体がないものですが、毒素や熱などにくっつけて体外に捨てると流れができます。

僕たちが、体に起きた症状ではなく気の流れのほうを優先してみていることは、ウイルス感染で起きた症状でも同じです。
インフルエンザにかかる前後の気の流れの変化を見ていれば、インフルエンザにかかるのは気の流れの悪い人です。そして、発熱して苦しんでいる時はすでに気の流れを回復させている最中であり、症状が終わるのは気の流れが通って環境との平衡状態を回復した時です。
症状のきつさや重篤さとは関係なく、気が通れば症状は終わります。でも、余計なことをして気の流れを止めたり、体に根本的な力がなくて気の流れが通らなければ死に至ることもあります。それはコロナウイルスでも同じだと思います。

僕たちが経験して言えることは、ウイルスによる症状が終わった時には気が通っているということです。つまり感染して症状が起きる条件は気が通ってないことだというのがインフルエンザの時から言ってきたことです。

だから、コロナウイルスを警戒するあまり、心のなかを恐怖や疑いでいっぱいにしていたり、我が身の周りに消毒薬を撒きすぎて中毒を起こしてしまうといった、気の流れを停滞させてしまうことはかえってウイルスを呼び寄せているようなものだと思うのです。

こういう話は世間からも医療現場でも全く認知されておらず、気を通すということが何のことなのかよくわからないと思われるかもしれません。でも、中毒を排泄するということだったわかるのではないでしょうか。
中毒の処置には、毒を排泄する力を引き出すことと、排泄の出口を作ることが肝要です。それが気の流れを作ります。しかし、治療といって目で見える症状だけ押さえ込んで排泄の出口をなくしてしまっているケースは珍しくありません(というより治療の主流です)。
「あらゆる治療を尽くしました」という人が全く気の通りの悪い体になっていたということがよく起こっています。
この二つのやりかたの違いを気の流れという視点で見ていくと、ウイルスが何をしたいのかがわかってくるように僕は思うのですが。