「あの生き物はいったいなんですか?」と、
今月の「愉気便り」の表紙の写真についてここのところ何度も訊かれているのですが、あれは蚕(カイコ)です。
蚕という名前は誰でも知っていると思いますが、実際に見たことのある人は今は少なくなっているのですね。「これは蚕です」という説明をつけるべきでした。裏表紙のカブトムシの写真には「これはカブトムシ」と書いてしまったのもマヌケですね。知らない人はいないだろうに。
蚕は、趣味で飼っている人から分けてもらって、桑の葉を食べて育って繭を作って出てきた成虫が交尾をしているところを州子が写真に撮りました。飼ってみてわかったのですが、蚕というのはかなり特殊な生き物なんですね。生存条件をすべて人に委ねてしまってその見返りに絹を吐き、人工的な管理下で生殖をずっと繰り返してきて、そのように体をつくり変えてしまってきたようです。遺伝子組み換えなんかない時代のことなのに人工的な生き物という印象です。

先日、助産院もりあねを訪れて田口眞弓先生と久しぶりに話してきたのですが、ここでも蚕の話になって人工的生態の話から人間の体もどんどん人工的になっているという話になりました。
臓器摘出、臓器移植、人工妊娠といった技術がいまや当たり前になってきて、こちらも整体操法ではそういった人たちの体に毎日触れていてとくに驚かなくなってしまっていると思っていたのですが、「子宮の移植があるらしいの」と言われてちょっと驚いてしまいました。言われてみれば起こりそうなことです。子宮の移植を考案するような人たちなら自然分娩よりも帝王切開を好むのかなと思っていたら、赤ちゃんの出口はお腹に設けるのだそうです。僕は人工肛門のようなものを想像してしまいましたが、お腹の膜を開けば赤ちゃんが取り出せるそうです。
「これから、人の体はどうなっていくんでしょうねえ」と、ため息はつかないけれど遠くを見つめて話す田口先生の話を聞いていると、僕はまた、数年前に話してくれた「私たちみたいな助産師はもう絶滅危惧種なの」という言葉をつい思い出してしまいます。
でも、こういった話をしても自分たちが何を大事にしていきたいかということの確認ができるだけなのですが。

人工妊娠、人工出産と、人の生殖をどこまで人工的にしていっていいものかという問題は、テクノロジーだけの問題ではなく、倫理、道徳、哲学などからも議論が必要という話は聞かれますが、僕が思うのは、ごく当たり前の出産を経験した女性の話をもっと聞いてはどうかということです。出産のことを男がいくら脳で考えて議論しても分かるはずがないからです。女性でも生理がきちんとしているかどうかで意見は違ってくるように思います。

具体的な話で言うと、僕たちが女の子の体を幼児期から観ていれば初潮の迎え方はとても大切なものだと思っています。本人の感覚がよければ初潮の時期は視力が落ちることがわかります。目を休める必要があるからです。だから初潮で一時的に視力の落ちた女の子に対する担任の先生の配慮というものを期待したいのですが、運よく女の先生であっても「生理に煩わされていたら勉強が遅れちゃうよ」と言う先生でびっくりしたということがあります。その先生は学生時代から生理痛は受験の妨げになると言って低用量ピルを使って生理を止めてしまっている人でした。その先生に「生理だから目を休ませてください」と言っても話は通じませんでした。

何が大切なことなのかを判断するのは脳ではなくて体です。「人間とはこういうものだろう」というような、人の正しいあり方を間違わないためにも子供のうちから生理がきちんとしていくような選択をしたいものです。


庭のシマトネリコの木に今年はカブトムシが来るようになりました。毎日数十匹が集まってガシャガシャと大騒ぎしていますが、やっていることはメスを取り合ってケンカして交尾しているだけです。カラスに襲われても何があっても脇目も振らずただメスを追いかけている。なかなか健全な光景です。
その横を野良猫のクロが通り過ぎて行きました。後ろ姿には立派な睾丸がふたつ揺れています。もはや、タマなしの猫の方が珍しくない時代になっていますが、そんな仲間の変化を猫たちはどう思っているのか訊いてみたいものです。

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カイコ

 

冷蔵庫内の動的平衡

久しぶりの更新になります。別にサボっていたわけではないのですが、コロナウイルスに対するこちらの姿勢がはっきりしていくにつれ、それはデリケートな問題を含んでいて簡単に書くことができず、困ってひたすら考えていました。インターネットでは書けないことがあるのだということもここでようやくわかりました。
この2ヶ月間、講座のメンバーを中心に個別に臨時のセッションをしたりメールでのやり取りなどをしてきましたが、これからは講座でも少しずつお話ししていこうと思います。
そういうわけで、会員の皆さんには毎月の初めにお送りしている「愉気便り」も今月は遅れていてようやく昨日から順次発送を開始したばかりです。

さて、そんなこちらの事情はお構いなしに季節は進み、体の不調を訴える人は毎日訪れています。
最近は皮膚に斑点が出て高熱が続く謎の感染症が目に付きます。当然、コロナを念頭に置いた検査を受けますが陽性反応はなく「謎の感染症」と言われています。コロナのなりそこないなのかもしれませんが、梅雨時は皮膚にこういった症状が出るのは以前からあることです。
梅雨時は食べ物が傷みやすいから中毒を起こしやすいというのは誰でも知っていますが、整体を勉強していくと、食中毒とは別に、梅雨時は体が壊れていくものだということがわかってきます。
先週もそういうテーマで講座をしたばかりなのですが、昨日は僕自身が単純に痛んだものを食べて食中毒症状を起こしてしまいました。足元をすくわれたような思いです。

夕食後はいつもなら気だるさを感じながらボーッとして過ごす時間なのですが、居心地の悪い気持ち悪さを感じて落ち着きませんでした。2時間ほどで吐き気がしてきて、いったい何が起きているのか州子に体を観てもらいました。
「内臓が腫れ上がっているし背骨もズーッと下まで捻れているよ。急性中毒だと思うけどなんか変なもの食べた?」
僕はちょっとムッとして「食べたのはあなたが出してくれたものだけです」と答えましたが、昔、自分で作った酢締めの甘いシメサバに当たって苦しんだ時の感じにそっくりの症状だと自分ではもうわかっています。四夜連続でカツオの刺身が出てくるのを昨夜は「おかしいな」とは思っていたのに何も言わずに食べてしまった自分が情けないのですが州子は食べてなかったようです。
排毒を促すために右足の二三指間を押し広げられると飛び上がるほど痛くて、
「それはいくらなんでも痛すぎだと思うけど」と訴えたのですが、州子は「あなたにやられている人たちの方が痛そうだけど」と言って取り合わないのです。そんなことはないと思うのですが。二三指間が通ると下痢が起きて一件落着なのですが、こういったことに慣れてしまっているほど食中毒が多いことは反省材料です。酢で締め過ぎていないシメサバを自分で作るのが好きだし、肉も腐りかけた頃が美味しいとか言っているからしょうがないのですが。


実は、故障続きだった冷蔵庫が先週突然壊れて急遽買い換えたところでした。
前の冷蔵庫は引越しの時に買い換えたものでした。
「冷蔵庫が小さくて食材が入らないわ」とよく言われていたので一回り大きいものにしたのですが、すぐにまたいっぱいになりました。
「賞味期限が切れたものまで取っておくからだよ」と言っても、「私はねずみ年だからためておくのが好きなの」とか言って取り合ってくれませんでした。 先週、新しい冷蔵庫が来てから州子は「冷蔵庫がいいと料理も美味しいわね」とここのところ毎晩言っていました。性能が良くなったのは確かなのですが、食材が腐らなくなるというのは単なる勘違いです。

今回の教訓は冷蔵庫です。
「冷蔵庫を大きいものに買い換えてもすぐに同じようにいっぱいになる」というのが前回発見した法則だったのですが、今回は「冷蔵庫を性能の良い物に買い換えても、以前と同じ比率で食べられない食材が保存されている」ということがわかりました。
川の流れはいつも同じように見えても流れている水は入れ替わっていることを動的平衡というなら、中身が毎日入れ替わっているのにいつも同じような状態にあるうちの冷蔵庫内も安定した平衡状態だと言えそうです。
そういえば、毎年同じような頻度で繰り返されている僕の食中毒も、そのことで何かを保っているのかもしれません。

 

カエルたちの季節

昨夜はカエルたちがずいぶん騒がしいと思っていたら、今朝は庭のあらゆる水甕、水盤に卵が産み落とされていました。これからしばらくカエルとオタマジャクシの季節です。
蔵の壁にかけた巣箱ではシジュウカラの雛がかえったみたいだし、猫のアゲハも子供を産みました。庭の花たちも咲きはじめ、僕たちには草刈りに追われる季節が始まります。
毎年繰り返されるこうした命の営みの中に自分たちの生活があることで感じるものは、これ以上はないと思われるような安心感です。コロナ禍の中でもそれは同じです。

 

これが2011年の原発事故の時は違いました。不安の原因は土と空気の汚染だったからです。
あの年、不安でいっぱいの人たちに僕はなんと言っていいかわからず本当に困りました。大気と大地に疑いを持ちながら方向を指し示すことなどできないし、自分たちが戻れる方向さえも見失なってしまった感じでした。
でも、今回は違います。
欧米で暮らしている人たちから送られてくるメールには、「家族で森に出かけた」とか「ベランダで風に吹かれるのを感じた」といった話が目に付きます。日本がまだ経験していない恐怖や不安の中で、人が何を求めるものなのかがうかがえます。
こうした不安の訴えに対して僕が答えていることはいつも同じで、「自分自身が自然界の一部だということを思い出してください」ということです。
目に見えない生き物たちや自然界を敵と思うか味方と思うかで世の中の見え方は変わってきます。


ずっと以前の話ですが、原因不明の不安を慢性的に訴える女性がいました。
操法を受けると楽にはなるのですがまた繰り返します。その女性がうちの庭で「なんだか落ち着く」と言っていたことが耳に残っていました。
その後、その女性のお宅を訪れる機会がありました。
敷地内に生える草は残らず除草剤で枯らされていました。家の中も除菌剤が撒かれているのか、病院や研究所のような無菌的と感じる空間でした。数分の滞在でしたが僕は気持ち悪くなってしまって帰り際に、「あなたは原因不明だというけれど、ここに住んでておかしくなるのなら正常だと思うよ」と言ってしまいました。

自然界では草が生えてしまい、生き物は無数に生まれています。
その草や木を切り、他の生き物の侵入を防いで人の生きる空間を確保しています。これが人の営みですが、これをやりつくしてしまったところでは人は生きられません。人は自然界の一部です。
人は目に見えないほど小さなものたちに助けられ守られていないと生きていけないのに、そのことを実感することができません。だから、そんなものたちを育むように手入れされた自然を身の回りに保つことを「正しい生活」と呼ぼうと思います。
目に見えないものへの働きかけが正しかったなら、それは目に見える形で姿を現してくれるものです。
カエルの次の僕たちの関心ごとは、「6月になったら庭に蛍は飛ぶだろうか」ということです。

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講座の再開


昨日、久し振りに中等講座のメンバーを集めて講座をやってみました。
そろそろ、コロナ禍の影響がいろいろな形で現れだすと思うので、これまでコロナウイルスについて僕なりに考えてきたことをこの辺で話しておいた方がいいだろうと思って日取りを決めたのは一週間前でした。
ところがその直後、メンバーのNさんの勤める病院でコロナウイルス感染者が複数出たことがわかりました。講座でコロナウイルスに対して何ができるかを話す前に、それぞれがどういう気持ちでそれに向かい合えるかを考えて欲しいと思っていたのですが、架空の話ではなく急に現実味を帯びてきたので、「出席は覚悟ができた人だけにしてください」と伝えました。
しかし、その後も病院では感染者が増え、Nさんは保健所から「病院外での集会や接触は避けてください」と通達されてしまったので、昨日はNさん抜きで講座をしたわけですが、こういうことがいつ自分たちに起こるかわからないわけです。そのときになって自分がどういう風に振る舞うのだろうかということを想像することはいまからしておいた方がいいかもしれません。

中等講座のメンバーには医療関係の人が多いので、早めに講座をやりたいと思っていたのですが、やっぱりこういうことが起きました。
当たり前ですが、整体のアプローチは現代医療とは全く違います。検査、隔離、薬物投与ではなく、要らぬ災いを招かないための心のあり方と体の整え方です。

コロナ禍というのは、ウイルス感染だけのことではなく、これから社会の仕組みや価値観がいろいろと変わっていく時に身の回りで困ったことが起きていくことです。
そういうことを考えていく時期にもう入っていると思います。

初等講座や愉気の会も早くに再開していきたいと思うのですが、こちらの問題は人数です。今までと同じような多人数の講座はしばらくできないかもしれません。
人数を制限して予約制にして小規模に複数回に分けてやっていくとか考えていますが、みなさんのご意見もお聞かせいただけたらと思っています。

いま、中毒のことを話すわけ

ここのところ、コロナウイルス関連の話ばかり続いているのに、なぜ中毒の話が織り交ぜられているのかと思われているかもしれませんが関係は深いのです。

中毒とは、毒素が排泄できなくて体に溜まっている苦しい状態ですが、気の流れが止まってしまっている状態ということもできます。整体には、中毒操法と言って体の排泄の働きを誘導する刺激法があるのですが、これは実によく使います。どんなに気の流れが悪い人でも、体が毒素を排泄する働きに乗っけて気の流れが整ってしまうからです。気というものは実体がないものですが、毒素や熱などにくっつけて体外に捨てると流れができます。

僕たちが、体に起きた症状ではなく気の流れのほうを優先してみていることは、ウイルス感染で起きた症状でも同じです。
インフルエンザにかかる前後の気の流れの変化を見ていれば、インフルエンザにかかるのは気の流れの悪い人です。そして、発熱して苦しんでいる時はすでに気の流れを回復させている最中であり、症状が終わるのは気の流れが通って環境との平衡状態を回復した時です。
症状のきつさや重篤さとは関係なく、気が通れば症状は終わります。でも、余計なことをして気の流れを止めたり、体に根本的な力がなくて気の流れが通らなければ死に至ることもあります。それはコロナウイルスでも同じだと思います。

僕たちが経験して言えることは、ウイルスによる症状が終わった時には気が通っているということです。つまり感染して症状が起きる条件は気が通ってないことだというのがインフルエンザの時から言ってきたことです。

だから、コロナウイルスを警戒するあまり、心のなかを恐怖や疑いでいっぱいにしていたり、我が身の周りに消毒薬を撒きすぎて中毒を起こしてしまうといった、気の流れを停滞させてしまうことはかえってウイルスを呼び寄せているようなものだと思うのです。

こういう話は世間からも医療現場でも全く認知されておらず、気を通すということが何のことなのかよくわからないと思われるかもしれません。でも、中毒を排泄するということだったわかるのではないでしょうか。
中毒の処置には、毒を排泄する力を引き出すことと、排泄の出口を作ることが肝要です。それが気の流れを作ります。しかし、治療といって目で見える症状だけ押さえ込んで排泄の出口をなくしてしまっているケースは珍しくありません(というより治療の主流です)。
「あらゆる治療を尽くしました」という人が全く気の通りの悪い体になっていたということがよく起こっています。
この二つのやりかたの違いを気の流れという視点で見ていくと、ウイルスが何をしたいのかがわかってくるように僕は思うのですが。