抗体を持つ鶏

今回もコロナの話です。

鳥インフルエンザというものがあります。
養鶏場でこれが発生すると何万羽という数が殺処分されて話題になりますが、20年くらい前に印象的な出来事がありました。
僕の知り合いのある養鶏家は300羽くらいの鶏を飼って暮らしていました。「それ以上の数になるともう目が行き届かないから」というのが理由です。数万羽を管理するのが当たり前の他の養鶏家には、「300羽で採算が取れるのか?どうやって生計を立てているんだ?」ということが謎でしょう。実はこの問いに対する答えを見つけることこそが重要なのですが、まずはウイルスの話です。

ある年、鳥インフルエンザが県内で発生して保健所の人がその養鶏家のところにもやってきました。鳥インフルエンザがどこかで発生するとかなり広い範囲の鶏を殺処分して感染拡大を防ぐのです。
その養鶏家の鶏たちはワクチンの接種をしたことがありませんでした。
保健所の人は、「こういう無知な人が感染を広げるんだよな」と思っていました。そして、「ここの鶏はもう感染しているのだろうな」と思いながら検査して驚きました。そこの鶏たちはみんなすでに抗体を持っていたからです。
「こんなことはありえない。ワクチンの接種をしていない鶏がなんで抗体を持っているんだ」
と納得のいかない保健所の人に、その養鶏家は不思議そうに、
「だってうちの鶏はオープンな環境で飼っているから、好きなときに好きなところに行けて、あらゆるものと接しているんです。よそからはいろんな鳥が飛んでくるし、だからいろんなウイルスに接触しているはずです。それでこんなに元気なのだから抗体くらいあるはずです。もちろん弱いものが途中で死んでしまうことは避けられませんが」と言いました。
それでも、「こんなケースはいままで見たことがない」と、保健所の人は納得がいかなかったようです。僕にはこのことのほうが驚きです。それは医者が「薬を使わないで風邪が治ったなんて見たことがない」と言っているのと同じことだからです。
それは、昔は当たり前だった鶏の飼い方そのものがなくなってしまっているということのようです。

その養鶏家は、下草を刈ったり木を植えたり、考えつくあらゆることをして環境を整えていました。そして、その毎日の労働の元になっている考え方とは、悪いものを排除するよりも、あらゆるものが出入り自由で多くの菌を受け入れることでした。それらがバランスをとり、自分が気持ちいいと感じるよう手入れを怠らなければ、風通しのいい、気の通りのいい状態ができるはずで、その状態であれば特定のウイルスが暴れだすことは起こらないというものでした。

巨大な倉庫のような風通しの悪い密閉された鶏舎内で数万羽の鶏を飼うやり方は、病気にならない方が不自然だとその養鶏家は言います。大量に出る鶏糞には細菌がつきますから大量の消毒薬が撒かれます。そうすれば、鶏の免疫を守ってくれる菌はなにもいなくなってしまいます。それで、鶏が病気にならないように抗生物質が投与されますが、細菌がなにもいない状態こそが凶暴なウイルスが暴れるにふさわしい空間です。数十回にわたってワクチンが接種されますが、ウイルスは変異するものです。

その養鶏家が寂しそうに語ってくれた言葉を僕はよく思い出します。
「鶏が病気になりやすい状態を人が作ったからワクチンや抗生物質が必要になったんです。経済性や合理性ばかりを求めるからそういうことになるんです。でも彼らが求めているのは養鶏ではなくてビジネスですから、彼らに私のやっていることを話しても鼻で笑われてしまいます。『それじゃ儲からないよな』って」「保健所の人も、私が消毒や投薬をしてないと言うと、『じゃあ、何も対策してないんですね』って言うんですよ。本当の解決は、そういう対策がなにも必要なくなるような生き方をすることだと思うんですけどね」

繰り返しますが、これはコロナの話です。

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中毒に気がつく

中等講座のメンバーにはなぜか医療現場で働いているひとが多いのですが、コロナ禍で、その彼女たちが職場で自身への過剰なアルコール消毒を強いられているという話を聞きました。
「もう、アルコールには触りたくない」と感じるほどまいっているらしいのですが、そんな彼女たちの訴えを「そんなことは自分でなんとかしなさい」とばかりに冷たくあしらったのはつい最近のことでした。これが初心者だったら「そういうときはね」と言って中毒とはなんなのかを説明してあげたと思うのですが、中等講座の人たちですから「中毒操法を使わないで済むようになることが中毒を理解することだ」とか言ったと思うのです。でも、そんな偉そうなことはしばらく言えそうもありません。僕自身が身を持ってアルコールの害を知ったのはまだ昨日のことです。
そういえば、超音波のアロマデュフューザーにアルコールを混ぜて空気中に拡散している職場もあると聞きました。これは、僕がやってしまったことと同じですね。これを報告してくれた女性は呼吸が苦しいことを訴えたそうですが、職場のオーナーは意味がわからなかったようです。

言うまでもないことですが、すべての薬が、その使い方と量によって毒にも薬にもなります。
生活空間や環境のいたるところに殺菌剤が使われていますが、毒を撒くことを消毒と呼んでいることが落とし穴です。
欧米の公共の場で大規模に消毒薬を散布している映像を見ると、ウイルスを抑制してくれていたはずの細菌なんかも皆殺しですね。アルコール消毒はコロナウイルスだけを殺すのではないということです。無菌状態の環境では免疫力は著しく低下します。免疫力というのは外敵を攻撃する力ではなくて、自分自身を取り巻いている環境の中での細菌やウイルスなどすべてのバランスのことだと僕は思います。

毎年、初夏は体に変動が起こる時期ですが、今年は消毒のしすぎで体調不良を起こす人が増えるのかもしれません。

 

 

アルコール消毒薬中毒

昨日の話です。
その前の日はなんとなく体がだるくて疲れやすい感じがしただけでしたが、昨日は起床したときから焼けるような喉の痛みと頭痛がありました。頭がボーッとして熱く、鼻の粘膜は乾ききっているし、何より胸にまったく息が入りません。予期せずに突然やってきた今までに経験したことのない症状でした。さすがに、「これはまずいかも」と思いました。


朝食時に向かい合って座っていると州子が、「どこか具合でも悪いの?」と聞いてきたので、
「やっぱりわかるんだな」と思って正直に症状を話しました。そして「コロナ感染だと思う?」と聞いてみました。こういうときの州子のものを観る力を僕は結構信用しているからです。
州子はジッと僕を見てから笑って「また何か悪いことしてたでしょ」と言いました。
これはなかなか心外な言葉でした。連休に入ってから外出も控えて心静かに過ごしているというのになんということを言うのでしょう。朝食を終えた僕は半ば呆れて道場に向かいました。このところ午前中の日課となっているのは静かに音楽を聴きながら思索を巡らしメールの返信や原稿を書くということです。これのどこがいけないんだ、まったく。
世の中が苦しいときにはクライスラーのバイオリンが聴きたくなるとどこかで書きましたが、最近はもっと悲痛なビリー・ホリディの歌唱がいつもより心に沁みます。そんな今の気分を理解するのに手助けとなってくれるものを探していると、聴きたいものがいつもとは違っていて、押入れから古いレコードを引っ張り出して聴いています。なかには数十年ぶりに聴くようなものがあって、それらのレコードのカビを落とすところから始めるのが日課になっています。それで今日もその作業から始めたのですが、そのとき吐き気と頭痛がして気がつきました。体調不良の原因はレコード洗浄に使ったアルコールでした。なんの疑いも持たずにイソプロピルアルコールを希釈してレコード盤に塗り、超音波で振動する洗顔ブラシで汚れを落としていたのですが、揮発させてずいぶん吸い込んでしまっていたようです。それで調べてみたらイソプロピルアルコールの毒性はエタノールの2倍だそうです。飲んでしまった場合の致死量も明示されていましたが、僕はその数倍の量を使って100枚以上のレコードを磨いたところでした。中毒症状特有の舌がピリピリする感じや唾液が金属の味がするような感じが確かにあります。そして空気中の毒素を呼吸に吸いこんだ時に起こる鎖骨の詰まった感じもあります。僕はもともと鎖骨を打撲で壊しているのですが、鎖骨の裏からべったりとした脂が出てきました。
これはもうはっきりとアルコールを吸い込んで起こした中毒だと納得しました。

州子に、「触りもしないでなんでわかったの?」と聞くと、「昔、あなたが夜中に写真の現像をするたびに中毒を起こしていたでしょ。苦しんで寝られないあなたに私が明け方に中毒操法をしたことが何回あったと思うの?あの時と雰囲気が同じだったのよ」と言われました。
やっぱり、よく見ているんですね。

 

いま、関心があること

毎日、世間はいったいどうなっているんだろうと思ってニュースを見るのですが欲しい情報が得られません。僕が知りたいのはコロナウイルスとはなんなのかということですが、連日の報道が政治家の話し合いや経済の動向で占められているのはコロナウイルスが何かということがまだ誰にもわからないからです。まだわからないのに話し合ってどうするか決めようとしているのですから乱暴な話だと思います。

大腸菌O157が流行った時には激しい下痢の症状があって多くの人が亡くなりましたが、下痢で毒素を排泄していた人は助かって、下痢を止めた人が中毒で亡くなっていたことを世間が知ったのはずいぶんあとになってからです。今回のコロナ禍も、発熱は下げないほうがいいのではないかと思ったりもしますが、そういった情報はでてきません。医療現場の人たちは情報発信には慎重になっているはずですが、それどころではないだろうとも思います。もっと大きな機関からの公式見解のようなものが出るのはたぶん事態が収束したあとでしょう。

だから、いま発熱や咳といった怪しい症状があって自宅で過ごしている人たちは、どうしたらいいのかがわからなくて本当に困っていると思います。連日、僕のところによせられる相談のメールや電話の多くはこのような感染以前の疑惑で不安になっている人たちからのものです。そして、生きていれば普段から普通に起こる症状さえもコロナの症状かもと結びつけて考えてしまうようになっています。

普段から、整体操法を受けに来た人たちを見ていると、腰が痛いとか胃が痛いとか頭痛だとか言っていても、その症状のもとになっているものは生活の乱れや人間関係だったということはよくあるのですが、コロナのことで起きている不調でもそれは同じです。

だから、いま、不調や不安があるひとは、この際ですから、それがどこから来ているのかを突き詰めて考えてみるといいかもしれません。生活の仕方、夫婦関係や親との確執などの人間関係、したくない仕事をして生きていないかなどといった、いままでわかっていたけど忙しくて先送りにしていたことが問題かもしれません。

自分の人生にとってのコアとなる問題をずっと先送りにしてきた理由は忙しくて考える暇がなかったからだと思います。流れに乗り遅れないようにするのに必死だったと思います。

でも、いま会社や学校を始め今まで信じてきた世間の仕組みがいろいろと止まってしまったために、このことを考え始めたひとが目に付きます。

これは、けっこう大事なことだと思うのですが。

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寄生虫と細菌とウイルスのバランス

 

「ウイルスに戦って勝つ」と唱えながら我が身の周囲に消毒薬を散布する人たちの姿を見ていると、ウイルスよりも先に人間の免疫力が参ってしまうように思えてなりません。

そもそも、「悪いものをやっつける」という発想は、近代文明の始まったヨーロッパで、森の木を切って開けた土地を作り、自然を壊すことで発展してきた文明の基本です。そうやって自然界のバランスを壊した結果、その揺り返しで起きたのがコレラやペストといった感染症の流行だったはずです。

太古の昔から人体では寄生虫と細菌とウイルスがバランスをとっていたのに、近年の衛生観念の発達で、寄生虫は完全に駆逐され、細菌は数も多様性も貧弱なものとなりました。それと入れ替わりにアレルギーが増えたことでバランスの崩れが認識できますが、それはウイルスが暴れやすい環境だということは、近年インフルエンザの症状が重篤化していることでわかると思います。

消毒しすぎてバランスを狂わせたことが招いた災いなのに、それに対しても私たちの文明はまだ消毒という攻撃手段しか対策を持っていません。生態系のバランスや調和に関しては、作り出すどころか概念さえないんだと思います。

 

先の緊急事態宣言が出たとき、ラジオで誰かが「これからは国民が一丸となってウイルスに打ち勝つまで戦いましょう」というのを聞いて思い出したのは、第二次大戦中の日本人が「国民精神総動員」の旗の下に竹槍を持たされている姿です。

「いまの消毒薬はあのときの竹槍だ」と思いながら一億総玉砕を想像しているときに友人が教えてくれたのが、朝日新聞に出ていた福岡伸一さんの「ウイルスは撲滅できない」という記事でした。そこにはウイルスとは何か、人とのそもそもの関係などが分かりやすく書かれていたのですが、それを読んだ妻が「これ、すごいよ」としきりに感心していました。何がすごいのかを聞くと「だってこの人学者なのに、ウイルスをやっつける方法とか、こうすれば解決するとかの具体的な方法や対策とかを一切書いてない。それなのに私の中に考える力が出てくるのを感じる」と言うのです。こういう誘導ができることこそが先を見通す力だと思います。

これを読んだ人の大部分が「具体的な対策は何もないじゃないか」と言うと思うのですが、それこそが考える力を養うのだと思います。

 

いま、政治家や世の中の舵を切っている人たちが希求しているものは、事態を一掃してしまうような特攻薬、じゃなかった特効薬でしょう。そういうワクチンとかが開発されれば世の中の混乱を治めてもとの状態に戻して、いままでと同じことをまだ続けられる。それを勝利と呼んでいるのでしょう。

 

僕は自然農法と整体という仕事をやってきて、畑に虫が出れば「薬を撒かないと野菜がやられちまうよ」と言うのを聞き、風邪で高熱が出れば「薬で止めないと治らない」と言っている人の体を見てきました。

でも、これらがすべて経過して落ち着いた時の様子を見ていると、何かの手を打ったから落ち着いたのではなく、そんなこととは関係のない他の大部分との調和を取り戻したから落ち着いたのだとしか思えないのです。日本でまだコロナウイルスによる死者が少ないのは、国土の大部分が森林に覆われているからかもしれません。直接関係ないと思われることから知らず知らずのうちに受けている恩恵に気がつくのは難しいことです。

 

いま起きていることは、人類がその考え方を根底から見直すことを迫られているのかもしれません。そうだとしたら、疑わしいものを片っ端からやっつけるよりも、真剣に困る方が近道かもしれません。

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